ネクストビジョン ありまです。
摩訶僧祇律というインド由来の古い仏教の仏教書に次のような説話があります。
むかしむかし、ある所にたいへん慈悲深く誠実なサルの王様がいました。ある夜、その王様は井戸の底の水に月の影が映っているのを見てとても驚きました。「大変だ!月が落ちてしまった!」王様はさっそく国にいた全てのサルたち500匹に総動員をかけて月を拾い上げることにしました。井戸の上に伸びている木の大枝から、500匹の猿が手をつないで深い深い井戸の底まで数珠つなぎとなって、何とか月を拾いあげようとしました。ところが、サルたちの重みで枝がポキンと折れて、哀れなことにサルたちは全員溺れ死んでしまいましたとさ。おしまい。
このお釈迦さまが話されたというこの説話はもちろん作り話ですが、この説話が伝えたいことは、いかに善意であれ、誠実であれ、真の知恵が伴わなければかえっておかしなことになってしまうということです。
サルの王様は誠実で善意に満ちていました。だからこそ「月が井戸に落ちた」という世界の危機(?)に対して立ち上がったのです。しかもこの事業に成功したからといっても直接の利益が得られるわけでもありません。完全なボランティアです。さらにこの王様には人望(?)もありました。人望があるからこそ、大勢のサルたちが王様についてきたのでしょう。
ところが、「真の知恵」がなかったのです。それゆえに、たくさんの「徳」を持っていたにもかかわらず結局は国を滅ぼすことになってしまいました。
この説話では「いかに誠実で慈悲深く無私の心があり人望があっても、知恵がなければだめだ」ということを伝えようとしています。善意や誠意さえあればそれでいいというのは間違いだということです。
このお話が中国から遣隋使、遣唐使を通じて日本に伝わる際に、あまり日本では評価されなかったようです。
掛け軸の日本画で「猿猴捉月」という画題となって描かれてはいるそうです。でもそれは「名月を取ってくれろと泣く子かな」的なほほえましい内容になっています。
説話の真意である「善意や誠意よりも知恵を持たないとだめ」は日本では多く語られてこなかったのです。
仏教伝来に大きな功績のあったあの聖徳太子も17条の憲法で「和をもって貴しとなす」を第一条に掲げています。
正確には・・↓
「一に曰く、和をもって貴しとなす、さかふることなきを宗とせよ。」
「二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。」
「三に曰く、詔を承りては、必ずつつしめ。君をば天とす。」
となります。
1に「和」、2に「仏教」、3に「天皇」。
聖徳太子は皇族の一人でありながら、自分が仕えている「天皇」より「仏教」、それより先に「和」を唱えているのです。
古典仏教には「何よりも知恵が大事」と書かれているのに、仏教を広めた張本人は「仏教より和が大切」と言っています。
日本では古来よりなによりも、誠意をもって話し合いうこと、善意ある行動が第一とされた文化があったのでしょう。
いくら仏教によって優れた知識や文化が伝来しても、日本人にとっての「善意や誠意が何よりも大切」というイデオロギーは変わりようがなかったのではないでしょうか。
この結果が昭和初期に起きた軍の暴走だったのかもしれません。結果を評価すると当時の指導者は極悪人ということになりますが、当時の当事者は日本を陥れようと考えていたわけではなく、それぞれが誠意と善意に満ちたうえでの判断の積み重ねだったと思うのです。だからこそ、古来からの日本にある「善意や誠意が何よりも大切」というイデオロギーが、その間違いを正すことも拒むこともできなかったのではないでしょうか。
結果、あのサルの国のように「猿猴月を取る」となって国家が絶滅しかけることになってしまったのです。
これから我が国にとって必要なのは「知恵」をしっかり持つことです。
あの国やそこの国に負けてしまっているのはこの知恵不足にあるんだろうなとおもいます。
会社経営者として大事な社員たちを幸せに導くためにも、「善意」や「誠意」を持ちつつ、たくさん勉強して「知識」を付けそれを「知恵」に変え活かすことがなによりも大切ですね。
私もサルの王様のようにならないよう努力せねばなりません。
コメント