ネクストビジョン ありまです。
これまで何度か坂本龍馬について語って来ましたが、今回は「経営者としての坂本龍馬」という視点で語ってみたいと思います。
では、その坂本社長が日本で初めて創ったといわれる株式会社、亀山社中(海援隊)の会社概要と沿革をちょっと勝手に整理してみました。
<会社概要>
・商 号 株式会社 亀山社中(かめやましゃちゅう)
(1867年4月より行政法人「海援隊」に改組)
・代 表 者 代表取締役社長(隊長) 坂本 龍馬
・設 立 1865年5月下旬
・所 在 地 長崎市伊良林2丁目7番付近
・資 本 金 30,000両(約10億円)※予測
・株 主 薩摩藩、長崎商人小曽根家
・社 員 数 約30名(当初約20名、延べ人数)
・事業内容 貿易商社、海運業、武器輸送業、航海術コンサルティング業、海軍(傭兵)業
・主要取引先 グラバー商会、薩摩藩、長州藩、土佐藩、大洲藩、
ポルトガル商人、プロシア商人、オランダ商人
・スローガン 「日本を洗濯致したく候」
<沿 革>
1865年 5月、日本初の株式会社、亀山社中、設立
7月、小銃・艦船を薩摩藩名義で購入、長州藩へ納品
10月、蒸気船ユニオン号購入
1866年 1月、薩長同盟締結
1月、近藤長次郎留学未遂事件を起こし自刃
5月、ワイル・ウエフ号五島沖で遭難、池内蔵太、黒木小太郎ら死亡
6月、第二次幕長戦争(第二次長州征伐)において下関海戦に参加
7月、経営難・木戸孝允(桂小五郎)に助けを請う
10月、大極丸を購入するも代金未払により就航できなくなる
1867年 4月、土佐藩に付属する外郭機関として改組、「海援隊」に改称
4月、日本初の海難事故、いろは丸、紀州藩船明光丸と衝突し沈没
5月、いろは丸事件、裁判にて紀州藩に勝訴
8月、イカルス号事件(イギリス水夫殺人事件)の容疑をかけられる(9月に無罪の判決)
9月、オランダより小銃大量購入
10月、大政奉還
11月、代表取締役社長(隊長) 坂本 龍馬 死去
1868年 1月、沢村惣之丞、薩摩藩士誤殺事件を起こし自刃
4月、土佐藩命により解散
亀山社中・海援隊といえばとても有名なのですが、意外にもたった3年間しか続いていなかったのですね。
坂本龍馬が会社を創業した時の年齢は31歳。33歳で亡くなるまでのこのわずかの短い期間で様々な出来事や事件が起こり、坂本社長は会社の運営と同時に国事に奮闘していたことがわかります。
では、経営者としての坂本龍馬社長の評価はいかに?
確かに、薩長同盟や大政奉還など、その後の日本の歴史に影響する事業を成功させた立役者です。しかし、これは坂本龍馬の個人としての活動であり、会社としての実績ではありません。しかも利益という点での業績は残念ながら散々たるものです。
当初、大量の武器や艦船の貿易事業には成功していますが、その経営状況は決して良いものではなかったようです。給料は全員一律3両2分。今のお金にして10万5千円程度だったとか。社員(隊員)たちは、一時期副業で長崎のカステラを見よう見まねで作って販売したり、何かしないと食っていけない状況だったようです。
その後、ワイル・ウエフ号が積荷といっしょに五島沖で遭難し社員2名を失うなど、経営に決定的な打撃をうけてしまいます。下関海戦に参加するなど傭兵のような活動も行いますが、ついには経営難となり給与遅延もしてしまいます。大極丸という新たな艦船を購入するものの代金未払いで差し押さえられる有様です。
その結果、後藤象二郎のはからいで、土佐藩に付属する外郭機関として改組、「海援隊」に改称します。
ようするに自己資金では廻らなくなったので、株式会社から行政出資の独立行政法人か特殊法人または第3セクターに作り直したようなものでしょうか。「海援隊」として再出発になったのははっきり言って倒産による再建処置のようなものだったわけです。
そして、坂本社長は志半ばで亡くなってしまいます。
最も残念なのは、社長死亡によりすぐに会社もなくなってしまったことです。経営者としては後継者を育て、組織的に自分がいなくなっても継続的に機能し続ける会社を目指さなければなりません。
こうしてみると、経営者としての坂本社長には厳しい評価を付けざるを得ませんね。
株主に対する利益還元の義務を果たすこともできず、社員たちの生活を厳しくさせてしまい、ついには倒産再建すれども、社長不在により3年という短命に終えてしまったのです。事実だけを見るととてもひどい経営だったといわざるをえません。
ですが、私は経営者としての坂本龍馬社長を高く評価したいと考えています。
評価すべきは、この社員たちのその後の人生だと思うからなのです。
このブログを執筆するにあたり、私は、亀山社中・海援隊に所属していた隊士の名前を一人一人ウィキペディアで調べてみました。すると、なんと、28名の関係者のうち(※消息不明の4名を除く)、23名が明治維新の後も活躍しているのです。坂本社長を含め5名は非業の最期でしたが、生存率、82.1%という驚異の高さです。当時明治維新で活躍していた志士たちがここまで生存率は高くありません。新撰組にしても土佐勤皇党にいたってはほぼ全滅状態です。
しかも、生存者の多くは、陸奥宗光のように外務大臣になったものや、初代衆議院議長になった中島作太郎など、政府要人・県知事・国会議員・経営者・学者・文化人などと、多くの成功者に立派に育っています。会計を担当していた岩崎弥太郎が、のちに三菱の基礎を作ったことは余りに有名ですね。
確かに会社は収益はあげられず3年しかもちませんでした。ですが、これだけの社員たちを立派に幸せにできたのです。坂本龍馬社長は素晴らしい経営者といえるのではないでしょうか!
そもそも、坂本龍馬は、新しい日本を創ろうとしていたのですよね。関わるすべての人々の幸せのためにどんな日本を創るべきかを考えて活動していたのですよね。
そんな中、坂本龍馬は1866年10月に購入した蒸気船・太極丸を使って蝦夷開発などをしようと考えていたという話が残っています。つまり、維新後の海援隊や志士たちのその後の生活のことも考えていたわけです。
そんな坂本社長が、経営がひっ迫した際に隊士たちに給金が支払うことができないことを告げたとき、誰一人として辞めるものはいなかったとか。
経営者にとって必要な考え方とは、志があり、社員や関わるすべての人々の「将来の幸せを追求すること」だと思います。坂本社長はそれができていた。だからこそ、経営のピンチに皆が協力的に動いてくれたのだと思います。
会社はどんなことがあっても存続させなければなりません。従ってそのために最低限必要な利益を確保しないといけません。これが経営者の最低限の義務だと思います。そして高収益な事業を成功させればたいした経営者です。
ですが、いくら小さな組織でも、小さな事業であっても、泥臭い活動であったとしても、志を持ち、その会社に関わるすべての人々が、幸せな人生を歩んでいてくれることを願い、そのための活動をしている。そんな会社の社長こそが、本当に優れた経営者なのではないのかなと考えています。
ちなみに、
海援隊の旗印です。白地に二本の赤線、この図柄は「二曳き(にびき)」と呼ばれています。
ソフトバンクのブランドロゴは海援隊の旗印がモチーフなのです。
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こちらは、三菱の流れを汲む、日本郵船の船。海援隊の想いを継いで旗印には今でも「二曳き」が使われています。
余りにも経営はボロボロで短命に終わりましたが、これほどまでに人々に影響を与え続け、世の中を変えることのできた会社を他には知らないですね。</br
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