「生きざま」で人を「感化」させる指導者・吉田松陰

ネクストビジョン ありまです。

今年のNHKの大河ドラマは「花燃ゆ」。吉田松陰の妹 杉文を取り上げ、舞台となる山口県は大いに盛り上がっているようで、山口出身の私としてもうれしいものです。

先日、東京の社員たちに「吉田松陰って知ってるかい?」と尋ねたところ、
ほとんどの社員が「聞いたことはあるがどんな人か知らない」という答えにビックリ・・・。
意外と最近の若い人は知らないんですね。

ということで今回は話題の吉田松陰について取り上げます。

吉田松陰をざっくり紹介すれば、「長州藩・萩で私塾「松下村塾」で久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋といった志士たちを教育した明治維新の精神的指導者」ということでしょうか。
私流に紹介すれば「不器用な人」「ムチャクチャな人」「極端な人」「なのになぜか人間的な魅力のある人」でしょうか。

その生涯をまとめたいと思います。

・1830年9月20日下級武士の杉家に次男として生まれる。
・5歳 叔父で兵学師範の吉田大助の養子になる。
・6歳 吉田大助死去に伴い吉田家の家督を継ぐ。
(同時に兵学師範としての名跡を継ぐ)
叔父の玉木文之進により世間から隔離されて超エリート教育/超スパルタ教育を受ける。
・11歳 藩主・毛利慶親に兵学を講義、藩校明倫館の教授として勤務する。
・19歳 江戸へ遊学・佐久間象山に入門
・20歳 東北視察・ロシアの黒船の津軽海峡往来の視察
・21歳 脱藩の罪で士籍家禄を奪われる

自由を得た18歳から「世の中を知りたい」「世界を知りたい」「今の日本はどうなっているのか」その好奇心が多くの人に会い・実際に見にいくというすさまじい行動力を発揮します。

私は、6歳から始まった叔父さんの凄まじいスパルタ教育がそうさせたのだと思っています。子どもの貴重な遊びの時間を奪われて「私事」である好奇心を抑制させ続けて育った結果、大人になって好奇心を原動力に爆発的な行動力が発揮されたんじゃないかな。変な性格のゆがみとかの影響でなく本当に運が良かった。

だた、東北視察は過書という身分証明書を藩の発行が遅かったため待ちきれず出発、そのため、脱藩罪になってしまいます。脱藩罪は当時は死罪、藩主の特別の情けで許されたのがよかったものの、たとえ死罪でも好奇心を満たすためにはじっとしてはいられなかったのです。
欧米の脅威にさらされていた日本の守りを調査するためとはいえ、厳冬の東北を3000km、ロシアの黒船を見たい一心で決死の旅をします。ムチャと青春の旅立ちです。

・22歳 再び江戸へ遊学・浦賀沖にてペリー艦隊を視察。
外国留学を決心。
長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦へ金子重之輔と密航・失敗。
・23歳 伊豆下田港に寄港していた再航したペリー艦隊へ金子重之輔と密航・失敗。
自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される

次なるムチャはペリーの黒船に乗り込んでのアメリカへの密航です。
密航に失敗した松陰はその胸のうちを「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」と詠んでます。
つまり「いやー、こうなるとはわかってたんだけどなぁ。でも、どうしても行ってみたかったんよぉ」ってこと。
ダメだってことわかってたんじゃん。
またも、たとえ死罪でも好奇心を満たすためにはじっとしてはいられない。吉田松陰とはそういう人です。

・24歳 生家(杉家)で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。
・26歳 叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、
高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。
・28歳 幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難
老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。
・29歳 幕命により江戸に送致される。
・30歳 老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、

吉田松陰が残した言葉に「至誠通天」という言葉があります。
「誠を尽くせば、願いは天にも通じる」という意味ですが、この「誠」という言葉ですが、単に「本当のこと」という単純な意味ではありません。「誠」という字は「言」と「成」からなっています。ここでの「誠」とは「自ら言った事を実行しそのとおりに成功させる」という意味なのです。
つまり吉田松陰のいう「至誠通天」とは、有言実行することであり、知行合一の精神そのものなのです。

松陰が松下村塾を主宰したのは2年たらず。にもかかわらず、なぜここまでの強い影響力を与えたのでしょうか。
それは自分でやってみせる指導者だったからです。

机の前で「日本が危ない」と説いている学者は幕末時期いくらでもいたことでしょう。しかし松陰の場合は、危ないと思ったら脱藩してでも東北を視察する。アメリカ密航を企てる。そのような捨て身の生き方が当時10代・20代前半の最も感受性の強い時期の若者たちの魂を揺さぶったのでしょうね。

松陰は弟子たちに対してただ「教化」しようとしたのではなく、自らの背中を見せて「感化」させたのだと思います。

子どものように好奇心いっぱいで、でもやることがムチャクチャで、不器用で、、
だけどとても真っ直ぐに生きて、自分の信じた道を「天に通じる」と信じて進んでいった・・・。
吉田松陰とはそんな自分の生き方で人を導いた指導者でした。

指導者として必要なこと。それは「教化」だけでなく「感化」させること。
吉田松陰の生きざまはそうした教育者としての必要な姿を今でも教えてくれているように思います。

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この記事を書いた人

有馬 猛夫(ありま たけお)
ネクストビジョングループ 代表 IT系の専門学校で11年間教壇に立った経験を生かし、1999年ネクストビジョン設立。広島発ITベンチャー企業として製品開発・サービスの提供を行う。2006年広島市企業診断優良企業賞受賞。2008年マイクロソフト社と広島市によるITベンチャー支援企業として中国地方で初の選定企業となる。
・株式会社ネクストビジョン 代表取締役社長
・株式会社マイクロギア 代表取締役会長
・アナリックス株式会社 代表取締役会長
・一般社団法人ヘルスケアマネジメント協会 理事

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